トゥモロー・ワールド
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最も敬虔な人間性のみが、デウス・エクス・マキナのようにすべてを救う
2006年、『トゥモロー・ワールド』が公開された。そして私もその年に生まれた。おそらく当時、アルフォンソ・キュアロンも、この映画をめぐる議論が現在のように「正しさ」の様相を呈するようになるとは想像だにしなかっただろう。
ここでは、映画のなかで暗示的に描かれている宗教の意味についてだけ語りたい。実のところ、「宗教的な感覚」と「宗教」とは同じものではない。私を含む多くの人々が宗教に反感を抱くのは、その扇動性や、歴史において演じてきた決して誉められたとは言えない役割、そして次第に現代社会の発展を阻む足枷となった頑迷固陋と愚昧さのためだ。しかし、いわゆる「宗教的な感覚」とは、私の考えでは、最も原初的な美しさと感動である。宗教ゆえに、そうした光景が美しいのではない。そうした光景が美しいからこそ、宗教のなかに編み込まれたのである。荒廃した世界のなかの一筋の希望、新しい生命の誕生——これらは我々一人ひとりが触れたく、抱きしめたく、そのためなら命さえ捧げたいと願うものだ。映画においては、宗教的感覚はあくまで表現手法であり、主題ではない。宗教への嫌悪感を映画のなかに持ち込んで、鑑賞と思索の機会を失うことのないように願うばかりだ。