コンタクト
3 min
真理を尊ぶことを追求とするならば、科学者と伝道者もまた愛し合うことができる。
カール・セーガンの『コンタクト』を原作とし、女性の社会的境遇という原作の焦点を移し替え、ハードSFの外殻の大部分を捨て去って、科学と宗教の問題へと舵を切った作品である。
そこで、「デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)」に近い背景設定のもとでの科学と宗教について考察してみたい。以前、セラスに代表されるアメリカ哲学に触れたことがある。彼らは「科学的実在論」の立場を提唱し、「科学理論の実体の存在を認め、科学的方法、推論規則、概念の客観性を強調する」。明らかなことだが、これがある種の問題も引き起こしている——科学が実在するのなら、実在する科学をいかにして認識するのか? それはまるでメビウスの輪のように循環し続け、その中間体こそが宗教なのである。むしろ、宗教は科学の始まりであり、あるいは発展のなかでの障害でもある。映画は、科学問題のもとでの宗教の極端な狂熱を描き出している。ある者は狂喜し、ある者は自殺する——これこそが宗教の記号に接触した際の表現であり、ひとつの世界観と見なすこともできる。映画は三種類の世界観を提示している。純粋に理性的な科学、両者を融合させる折衷、そして純粋に感性的な宗教である。
そして監督は、ラストの公聴会において、主人公(アロウェイ)が絶対的理性から純粋な感性へと転換する様を、そして信仰者の口を借りて「しかし我々には共通の目標がある、真理を追い求めることだ」と語らせる。
この一点において、全編の主旨が立ち現れてくる。「しかし我々には共通の目標がある、真理を追い求めることだ」 と。