ドリーム

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“The importance of being the first”

2016年に公開された本作は、私が観てきた映画のなかでは若い世代に属する。九十年代に「ポリティカル・コレクトネス」の萌芽が生まれてからこの頃までには、それはすっかり根を張り広がっていた。もちろん、この映画の輝きがそれによって貶められるはずはない。

冒頭に述べたように、映画全体は常に「The importance of being the first(ファーストであることの重要性)」という視点を軸に展開している。登場人物の対話であれ、実際の歴史的背景であれ、いずれもこの視点を強調せずにはいない。実際、ここにおいて監督は、肌の色による解放と平等の問題に対する自らの見解を存分に描き出しているのである。

フーコーがジェンダーの問題を結果として捉えたのだとすれば、メルフィ(監督)は結果から原因へと遡り、ひとつの見解に到達した。すなわち、この一切の不平等、一切の対立の本質的構成要素は、能力の発揮における差異に起因している、と。したがって、「The importance of being the first」が表現しているのは、まさにこの差異を解決する方法にほかならない。発揮における差異がもたらした結果を補償して初めて、権利は再び掌握されうる。映画のなかで、数人の女性主人公たちはまさに努力を通じてこの差異を補償し、さらには常人を超える能力を示すことによって、人種隔離を緩和させ、さらには解消へと導いた。結局のところ、人は強者を崇める心理を持っているからだ。しかし、この映画が語るように、権利の天秤が傾いたあと、弱者の側は数倍の努力を払ってようやく再び均衡を取り戻せるのである。これはジェンダーとは関係がない。なぜなら、これは人間の本性だからだ。既得権益者は、男女を問わず、常にあらゆる手を尽くして自らの特権を守ろうとするものである。

映画を通して現実の生活を見つめる。陣営への与(くみ)し、対立、混乱。そして抽象化された現代のジャーナリズムがそれを引き立てる。すべては古典的な理解を離れ、不条理なものへと変貌している。このような状況で、あなたの求める平等は本当に約束通り訪れるのだろうか? あるいはまた、不条理な手段で獲得した権利は、本当に長続きするのだろうか? 私は思う——「この残酷な歓楽は、ついには残酷な結末を迎えるだろう」と。

そう考えると、むしろ映画に目を向けたほうがましだ。