太陽の少年

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振り返れば、あの眩しい陽射しはもう戻らない

まず断っておくが、私が観たのは22年フランス版の『太陽の少年』で、全長140分、以下に述べる内容はすべてこれに基づいている。姜文(ジアン・ウェン)の映画は常に隠喩を帯びている。『让子弹飞(弾丸を飛ばせ)』や『太阳照常升起(太陽はまた昇る)』などがそうだ。個人的な歴史知識の限界から、この面での評価は控える。映画の中の一人の人物、古伦木(グールンムー)についてだけ語ろう。

映画の最初から最後まで、古伦木は常に知的障害を抱えた姿で登場する。本来ならば取るに足らない、時代の風情を見せるだけの役柄であるはずが、映画全体を貫いている。序盤、屋敷の仲間たちが彼に「古伦木」と呼びかけると、彼は決まって「オバ」と返していた。これは当時(映画の時間軸)の『奇襲白虎団』(朝鮮戦争を描いた革命模範劇)における朝鮮軍の合言葉であった。

中盤の殴り合い騒動も、彼がいじめられたことに端を発している。この殴り合いについては二通りの解釈があり、一つは監督が当時の若者たちの兄弟義气(義侠心)の性格を強化するために用いたというもの、もう一つはさらに役柄を配置し直し(第一世代のヒロインを背後に退かせ)、映画の進行を調整するためのものだ。古伦木もまた、このあたりから徐々に姿を消していく。

終盤近く、兄弟と決裂した馬小軍(マー・シャオジュン)は屋敷のなかで古伦木に出会う。馬小軍は号泣する古伦木を慰めることもなく、すれ違って歩き去る。ここで、長らく姿を見せなかった古伦木が監督によって再び呼び出されたこと自体、この役柄の特殊性を物語っているといえる。

そして最後、数人の主人公たちはあの時代を離れて新しい社会へと至り、車窓越しに古伦木を見つける。彼らは過去を思い出し、「古伦木、古伦木」と呼びかける。しかし、橋の上を歩いていた古伦木はただ一言、「クソ野郎」と返すだけだった。

よく見ていくと、古伦木の棍棒は常に彼の側にあり、中盤で最大の衝突さえも、彼の棍棒が奪われたこと(前述の通り)が発端だったことに気づく。最後まで、主人公たちはすっかり変わってしまったのに、古伦木は相変わらず棍棒を手にしている。しかし口をついて出る言葉はもはや「オバ」ではなく、社会の新しい潮流が投影された「クソ野郎」なのだ。先の短い場面と重ね合わせると、大人になった数人の兄弟が車中で酒を酌み交わしながら当時の面影を追憶しているなか、すでに愚か者と化した劉憶苦(リウ・イークー)が外を指さし、全編を貫く時代の象徴たる人物を見つける。一つの言葉が一つの時代を代表する。馬小軍たちは車中から、少年時代に彼をからかったあの言葉「古伦木」を繰り返し叫び、彼もまた「オバ」と叫ぶだろうと思う。だが、古伦木が叫んだその二文字は、時代がすでに変わったこと、そろそろ少年期から現実へと戻るべき時なのだと告げているのだ。